さんぽに行きましょう

スイスに住む 犬のつれづれ日記

多様性の白黒

今日は雨。

しかも3月末なのに4度という寒さ。

先ほどはみぞれらしきものまで降っていました。

 

こんな日は、さすがの私もちょっとテンション下がって眠くなります・・・。

 

抱っこされてもウトウト・・・

 

ソファに座ってもウトウト・・・

 

そんなぼんやり頭のまま、人間の皆さんの会話を聞いておりましたら

最近、どうも腑に落ちないことが続いているようで。

私なりにそれぞれの会話のパズルのピースを集めて、全体を眺めてみましたら

なんとなく見えてきたのは「多様性」という言葉でした。

 

・・・はて、「多様性」ってなんですか?

 

例えばそれは、

私は白茶色の毛だけど、ナブックくんは真っ黒。

私はクルクル天パだけど、ココちゃんはストレートヘアー。

みんなそれぞれ違うけど、それぞれ素敵だね・・・とか?

 

うーん、それとも、

私は散歩が好きだけど、シロくんは散歩が嫌い。

犬なのに散歩好きじゃないって変だよ、なんて言わずにシロくんの好みを認めてあげましょう・・・とか?

 

もしくは、こんなこと?

私は散歩中、片足を上げて、用を足すことがあります。

それを見ると人間の皆さんに「モカチーノ、メスなのにねー」と、笑われます。

私には何がおかしいのかさっぱりわかりませんが、

おそらく皆さんの認識では、メス犬は片足をあげてトイレすることはない、

ということなのでしょう。

でも、人間社会の勝手な基準に合わせて、私がトイレの姿勢を変える必要はないので、今でも堂々と片足をあげさせていただいております・・・とか?

 

うーん、考えても犬の私には分かりません。

いやむしろ、考えれば考えるほど、分からなくなってきました。

 

人間の皆さんだって、「多様性」と、何となく共通の認識で理解しているつもりかもしれませんが、その言葉が意味することって、実はそれぞれの国や地域の社会背景、世代、ひいては個人の経験によっても、異なっている・・・そんな気がしませんか?

 

例えばスイスの学校に通う坊ちゃん世代の子供達は、「人種差別」に対して非常に敏感です。

 

会話の中で「あー!それ、人種差別。言っちゃいけないんだー!」と坊ちゃん達がパパママに注意することがあります。

 

パパママにとっては、全くそんな意識はなかったので驚いて、坊ちゃん達に

何で今のが人種差別になるの?

と聞くのですが、その理由はなんとも曖昧なような、極端すぎるような・・・。

 

そういえば、長男坊ちゃんの学年でも、ある先生から生徒へ人種差別の言動があったと、生徒達が集まって学校側にその先生を非難する報告を出したことがありました。

ただ、この出来事は腑に落ちない点がたくさんありました。

 

差別を受けた被害者と騒がれている生徒本人に、差別された自覚がなかったこと。

先生自身は、人道主義である自分に全くそのような意図があるわけがない、非難されて心外だ、と保身からくる攻撃姿勢に入ってしまった。

結果、先生が生徒達に「今度このような不当な非難をするなら、こちらにも訴える手段がある」と、半ば脅す形で、皆にわだかまりを残したまま、解決されることなくうやむやに終わってしまったのです。

 

なんだか、全てがおかしい気がいたしました。

これによって、子ども達が何を学んだのでしょう。

 

本当に人種差別の意図があったかもしれないし、なかったかもしれない。

本人の意図に関係なく、それが人種差別に当たる言動だったかもしれないし、でなかったかもしれない。

 

学校という教育の場でこのようなグレーゾーンの出来事が起こった場合、双方の正当性を主張して攻撃し合い、やった、やられた、謝罪する、謝罪しない、という二元的な結論に導くのではなく、一度落ち着いて、皆で人種差別とは一体何なのか、を話し合うべきだったのではないか、と思うのですが・・・。

 

このような人種差別に限らず、多様性という言葉が包括する、あれやこれやのグレーゾーンの中、近頃、それぞれが白か黒かを主張する言い争いが増えてきている気がします。

 

本来「多様性」が目指すところは、個人の違いを認め合い、尊重し合うことで、誰もが生きやすい社会を作り出すこと・・・だと思われるのですが、その曖昧な「多様性」という言葉のもとに、他者に対して瞬発的に攻撃的な姿勢をとる動きが増えてきているのは、なんとも皮肉な動きに感じられます。

 

ママのご友人は、今この社会に起こっている現象は、ユング派の心理学用語で「エナンティオドロミア」ーすなわち、逆転、反転であると思う、とおっしゃられています。

これは中国の陰陽思想に近く、状況は極端になると反転する、ということだそうです。

 

そのご友人曰く、自分はLGBTQとカテゴリーされる人間だけれども、LGBTQの権利を強く主張する人たちが、必ずしもいつも自分の気持ちを代弁してくれているわけではない、と。

 

誰かの「多様性を尊重していない」と思われる言動に対して一触即発、炎上。

・・・ではなくて、その言動の本質を理解するための対話、につなげていくような動きが大切なのだと思うのですけれど・・・

 

そうすれば、実は白と思っていたら黒だった。黒と思っていたら白だった。

そんなこともあるかもしれない。

自分たち自身のことすら、よく分からなくなることもあるかもしれない。

結局、答えは出ないかもしれない。

でも、それでいいんじゃないですかね。

 

詰まるところ、自分自身だって白にも黒にもなり得る危うい存在である、という謙虚な気づきがあってこそ、本当の意味で他者の多様性を尊重することにつながる気がいたします。

 

ま、こんなのは、傍観者である犬の理想論にすぎないのでしょうけれど。

 

そんなこんなを考えているうちに、雨が止みました。

 

 

雨あがりのさんぽ道で、牛さんの群れに出会いました。

スイスの牛さんって、茶色とクリーム色が多いです。

 

日本だと、白黒の牛さんがマジョリティーで、茶色やクリーム色はマイノリティー

と思っていますが、これは牛乳石鹸のパッケージイメージからの偏見でしょうか。

 

何色がマジョリティーであろうが、マイノリティーであろうが、

私は個人的に茶色の牛さんが好きです。

 

白黒の牛さんが好きな犬もいれば、

私のように茶色の牛さんが好きな犬もいる。

 

それじゃ、ダメですか?